概要
大倉公園は大正時代、日本陶器合名会社(現・ノリタケカンパニーリミテド)の初代社長大倉和親の別邸で1975年(昭和50年)に市が買い取り公園化された。
2009年(平成21年)10月には、大府市と災害時相互応援協定を結んでいる岩手県遠野市の茅葺職人7名を招き22年ぶりに茅葺門の葺き替えが行われた。
園内には約2,800本のツツジやヒトツバタゴ(ナンジャモンジャノキ)が植えられており、4月下旬から5月中旬に見頃を迎える。
また、2月中旬には「大府盆栽展」、4月下旬には「大倉公園つつじまつり」が行われ、賑わいをみせている。
歴史
永禄5年(1562年)に春林宗俶(大徳寺98世)により黄梅庵として草創された。春林は織田信長が帰依した禅僧である。
その後、春林の法嗣の玉仲宗琇(大徳寺112世)が豊臣秀吉、小早川隆景らの帰依を受け、堂宇を整備。黄梅院と改められた。天正14年(1586年)に本堂・唐門(玄関)が、天正17年(1589年)に庫裏などが整備されている。当院は近世を通じて毛利家の保護下にあった。
建造物
本堂(重要文化財)
天正14年(1586年)に豊臣秀吉の援助により建立された本瓦葺・入母屋造の建物で、禅宗特有の特徴がよくみられる。昭和52年(1977年)に約400年ぶりに解体修理が行われた。内部の襖絵(重要文化財)は雪舟の画風を継承した毛利家・御用絵師である雲谷等顔(うんこくとうがん)筆で、室中の「竹林七賢図」や檀那の間の「西湖図」など44面が残る。
書院・自休軒(じきゅうけん)
大徳寺を開いた大燈国師の遺墨「自休」を扁額に懸けて軒名としたもので、千利休の師・武野紹鴎(たけのじょうおう)好みと伝わる昨夢軒(さくむけん)という4畳半の茶室がある。
庫裏(重要文化財)
天正17年(1589年)に小早川隆景の寄進によって建立された切妻造・板葺の建物で、日本で現存最古の禅宗寺院の庫裏とされ、禅宗寺院の生活様式を今に伝える。
唐門(重要文化財)
本堂と同時期に秀吉により建立される。重要文化財指定名称は「玄関」。
表門
庫裏と同じく小早川隆景により建立されたもので、平成17年(2005年)に修理された。
鐘楼
梵鐘は天正19年(1592年)に加藤清正により寄進されたもので、朝鮮伝来のものと伝わる。
庭園
直中庭(じきちゅうてい)
千利休62歳の時に作られた苔一面の枯山水庭園で、豊臣秀吉の希望による瓢箪を象った池を手前に配し、加藤清正が持ち帰った朝鮮灯籠が据えられている。
破頭庭(はとうてい)
本堂の前庭にあたる簡素な庭で、天正年間に作られたといわれる。
作仏庭(さぶつてい)
本堂の北裏側にある庭で、生々流転(しょうじょうるてん)を表しているという。
円成寺(えんじょうじ)は、奈良市忍辱山町(にんにくせんちょう)にある真言宗御室派の仏教寺院。山号は忍辱山(にんにくせん)、本尊は阿弥陀如来。
奈良市街東方の柳生街道沿いに位置する古寺で、仏師・運慶のもっとも初期の作品である国宝・大日如来像を所蔵する。
境内
正門にあたる楼門の前には平安時代の面影を残す、池を中心とした浄土式庭園(名勝)が広がる。楼門を入ると本堂を中心に鎮守社の春日堂、白山堂、宇賀神本殿、多宝塔などが建つ。
現存する多宝塔は平成2年(1990年)の再建で、旧多宝塔は大正9年(1920年)、老朽化のため撤去された。ちなみに、鎌倉市の長寿寺にある観音堂は、旧円成寺多宝塔の初層部分の材を用いて建てられたものである。
沿革
寺に伝わる「和州忍辱山円成寺縁起」によれば、沿革は次の通りである。
天平勝宝8歳(756年)、聖武・孝謙両天皇の勅願により、鑑真の弟子にあたる僧・虚瀧(ころう)により開創される。万寿3年(1026年)に命禅が再興して十一面観音を祀ったという。しかし、鑑真とともに来日した僧の中に虚瀧なる人物は実在せず、奈良時代にさかのぼる遺品、出土品等も見当たらない。以上のことから、この草創縁起は後世の仮託と思われ、「中興の祖」とされている命禅が円成寺の実質的な開基であると推定されている。
平安時代末期の保元元年(1156年)、京都仁和寺の寛遍が東密忍辱山流(とうみつにんにくせんりゅう)を開き、寺運は興隆した。この頃に本尊が当初の十一面観音から阿弥陀如来に代わったと思われる。
室町時代、応仁の乱(1466年-1476年)の兵火により堂塔伽藍の大半が焼失したが、栄弘が入り再興された。
江戸時代は寺中に子院23か寺を有するほどであった。
明治の廃仏毀釈による混乱により衰え、現在に至る。
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。国の特別史跡に指定されている。現在は皇居として利用され、本丸・二ノ丸・三ノ丸部分は、皇居東御苑として無料で開放されている。
概要
江戸城は、現在の隅田川河口付近にあった麹町台地の西端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。
徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)・皇居となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)は、東京都千代田区の皇居の東側に付属してある広さ約21ヘクタールの庭園。宮内庁の管轄。皇宮警察がある。当地はかつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡に位置し、少し離れた場所の西の丸を含めた、この範囲のことを江戸城といった。緑豊かな雑木林に日本庭園や皇室関連の施設、江戸城の遺構などが残されている。戦後、特別史跡に指定され、1968年10月1日から一般に公開されるようになった。
かつての江戸城の本丸などがあった場所で、明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設があった。戦後の1960年に閣議決定により一般公開される運びになり、1963年に特別史跡に指定、1968年から一般公開されるようになった。苑内は庭園のほか、歴史的な史跡も見ることができ、国内のみならず海外からの旅行者も多く訪れる。