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無料で開放されている 江戸城・皇居東御苑

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。国の特別史跡に指定されている。現在は皇居として利用され、本丸・二ノ丸・三ノ丸部分は、皇居東御苑として無料で開放されている。

概要

江戸城は、現在の隅田川河口付近にあった麹町台地の西端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。

徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)・皇居となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。

皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)は、東京都千代田区の皇居の東側に付属してある広さ約21ヘクタールの庭園。宮内庁の管轄。皇宮警察がある。当地はかつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡に位置し、少し離れた場所の西の丸を含めた、この範囲のことを江戸城といった。緑豊かな雑木林に日本庭園や皇室関連の施設、江戸城の遺構などが残されている。戦後、特別史跡に指定され、1968101日から一般に公開されるようになった。

かつての江戸城の本丸などがあった場所で、明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設があった。戦後の1960年に閣議決定により一般公開される運びになり、1963年に特別史跡に指定、1968年から一般公開されるようになった。苑内は庭園のほか、歴史的な史跡も見ることができ、国内のみならず海外からの旅行者も多く訪れる。

 

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京都府京都市東山区 雲龍院の庭園

 雲龍院(うんりゅういん)は京都府京都市東山区にある仏教寺院。泉涌寺別院。山号は瑠璃山で、本尊は薬師如来。

南北朝時代は北朝の後光厳天皇の勅願により、竹巌聖皐を開山として応安5年(1372年)に創建された。後小松天皇、称光天皇など皇室の帰依を受けて発展したとされる。江戸時代初期、如周宗師が隣接する後円融天皇縁の龍華院を併合する。

勅願の寺院で皇室との縁の深さから、塔頭と同じく泉涌寺山内にありながら別格本山という高い寺格が与えられている。

龍華殿(本堂) - 室町時代は康応元年(1389年)に後円融天皇により建立されたが焼失。現在の堂は江戸時代は寛永年間の再建。寄棟、こけら葺き。国の重要文化財(昭和41年(1966年)指定)。

霊明殿 - 皇族の位牌堂、明治元年(1868年)再建。

不明門(正門)

庭園 – 庭石の2つは、東山七条にあった豊臣秀吉建立の大仏殿の礎石と伝わる。

 

築山、枯れ山水、自然林に模した樹木などが巧みに配置されている 梅村庭園

梅村庭園(うめむらていえん)は、北海道二海郡八雲町末広町にある北海道では珍しい池泉回遊式の庭園。

旧尾張藩士で菓子製造業、質屋業、呉服商などを営む梅村多十郎は1912年、梅村家別宅のあった現在地に蔵、離れ屋敷、洋風本館からなる住宅を建てるとともに、近隣の樹木や石を使用して庭の造園に取りかかった。庭園が最終的に完成したのは1930年頃で、池の周囲に自然景観を取り入れた築山、枯れ山水、自然林に模した樹木などが巧みに配置されている。

1983年に町指定文化財となり、2001年に町が購入して整備を進めた。2003年秋、開町125周年を記念して、土蔵と離れをつなぐ形で休憩施設「梅雲亭」が完成するとともに、蔵と離れの一般公開を開始した。土蔵内部には梅村家関連の資料が展示されている。

迎賓館赤坂離宮和風別館庭園を造った  岩城亘太郎

岩城亘太郎(いわきせんたろう 1898-1988年)は、日本の造園家、作庭家。小川治兵衛(植治)の甥。植治で修行後独立、岩城造園を設立する。

ジュッセルドルフ日本庭園(ドイツ)他一連の造園設計で、昭和50年度日本造園学会賞(設計計画作品部門)受賞

代表作

迎賓館赤坂離宮和風別館庭園

ホテルニューオータニ日本庭園

神奈川県立武道館庭園

茶道宗遍流止観亭

箱根美術館茶庭

大松美術館庭園

東京美術倶楽部庭園

西山荘

服部邸洗心苑(山形県)

伊勢神宮茶室庭園

ロイヤルパークホテル耕雲亭

ホテルオークラ日本庭園

古峯神社(栃木)

鈴木宗保邸(東京)

鳳琳カントリー倶楽部(千葉)

岩城亘太郎と水琴窟

今日一般に知られている水琴窟は、30数年前には昔の工法が失われていて、幻の水琴窟と言われていた。30数年前に、岩城亘太郎が昔に作庭した庭で水琴窟が施行されていたことが分かっている。水琴窟は、江戸時代から始まり明治時代には盛んに用いられたが、次第に廃れていった。1980年代に新聞やテレビ番組で取り上げられたことをきっかけにその存在が広く知られるようになった

 

日本全国に約500社ある厳島神社の総本社 厳島神社

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社である。日本全国に約500社ある厳島神社の総本社とされる。式内社(名神大社)・安芸国一宮で、旧社格は官幣中社、現在は神社本庁の別表神社に指定されている。

祭神

宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)を祀る。市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習合しており、当社は江島神社(神奈川県江の島)・都久夫須麻神社(滋賀県竹生島)と共に「日本三弁天の一」ともされている。

歴史

厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされてきたとされている。推古天皇元年(593年)、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。文献での初出は弘仁2年(811年)で、『延喜式神名帳』では「安芸国佐伯郡伊都伎嶋神社」と記載され、名神大社に列している。

平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、仁安3年(1168年)ごろに平清盛が現在の社殿を造営した。平家一門の隆盛とともに当社も盛えた。厳島神社は平家の守り神であった。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。

戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、元就が当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。元就は大掛かりな社殿修復を行っている。また、豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参拝し、大経堂を建立している。

江戸時代には厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。

明治4年(1871年)に国幣中社に列格し、同44年(1911年)に官幣中社に昇格した。

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