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2003年から2010年まで、8年連続で庭園日本一 足立美術館

足立美術館(あだちびじゅつかん)は、島根県安来市にある、近代日本画を中心とした私立美術館である。130点におよぶ横山大観の作品と日本庭園で著名。

地元出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう、1899- 1990年)が1970年(昭和45年)、71歳のときに開館したものである。質量ともに日本一として知られる大観の作品は総数130点にのぼり、足立コレクションの柱となっている。大観のほかにも、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら近代日本画壇の巨匠たちの作品のほか、北大路魯山人、河井寛次郎の陶芸、林義雄、鈴木寿雄らの童画、平櫛田中の木彫なども収蔵している。

足立全康は裸一貫から事業を起こし、一代で大コレクションをつくりあげたが、その絵画収集にかける情熱は並外れたものであったらしく、数々の逸話が残されている。なかでも大観の名作『紅葉』と『雨霽る』(あめはる)を含む「北沢コレクション」を1979年(昭和54年)に入手した際の武勇談は有名である。

足立美術館のもう一つの特色は、その広大な日本庭園である。庭園は「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など6つに分かれ、面積5万坪に及ぶ。全康自らが、全国を歩いて庭石や松の木などを捜してきたという。専属の庭師や美術館スタッフが、毎日手入れや清掃を行っていて「庭園もまた一幅の絵画である」という全康の言葉通り、絵画のように美しい庭園は国内はもとより海外でも評価が高い。日本庭園における造園技法のひとつである借景の手法が採られ、彼方の山や木々までも取り込んで織り成す造形美は秀逸である。

米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』が行っている日本庭園ランキング(Shiosai Ranking)では、初回の2003年から2010年まで、8年連続で庭園日本一に選出されている。2010年のランキングは日本国内803箇所の名所・旧跡を対象にしたもので、「庭そのものの質の高さ」「建物との調和」「利用者への対応」などが総合的に判断されたもので、とくに細部まで行き届いた維持管理が評価されている。また、『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で三つ星(必見)を獲得している。

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日本で最初の屋上緑化ともいえる 朝倉彫塑館の庭園

朝倉彫塑館(あさくらちょうそかん)は東京都台東区谷中にある、明治-昭和の彫刻・彫塑家であった朝倉文夫のアトリエ兼住居を改装した美術館である。1986年に台東区に移管され、現在は財団法人台東区芸術文化財団が運営・管理を行っている。

鉄筋コンクリート作りの旧アトリエ部分と、丸太と竹をモチーフにした数寄屋造りの旧住居部分からなり、その和洋折衷の特異な建築は朝倉文夫本人が自ら設計し、その意向が強く生かされている。

展示室は彫塑作品を展示する旧アトリエ部分を中心にして、遺品や蔵書を納めた書斎、コレクション品などを収めた応接室等があり、他にも掛軸、陶磁器など朝倉文夫のコレクションを展示している。また東洋ランの温室であったサンルームは「猫の間」とよばれ、文夫の愛した猫をモチーフにした作品が一堂に会している。

庭園

朝倉彫塑館を特徴付けるのは、中庭の池を中心とした日本庭園と、大きなオリーブの樹が印象的な屋上菜園である。池は谷中の湧水を利用しており、四季折々必ず白い花をつける木が植えられ、儒教の五常「仁・義・礼・智・心」を造形化した5つの巨石が配されたユニークな造園様式である。

また日本で最初の屋上緑化ともいえるその菜園は自然に触れることを芸術の基本と考えていた朝倉文夫の理念そのものであり、当時は大根やトマト、東洋ラン等が育てられていた。現在は花壇となっている。

いずれも入館者に広く公開されており、住宅街の路地入り組む中に佇む小さな個人美術館でありながら、非常に特徴的である。2001年(平成13年)に彫塑館の建物全体が国の登録有形文化財に登録された。また2008年に庭園が「旧朝倉文夫氏庭園」として国の名勝に指定された。

国の名勝に指定されている  赤穂市立田淵記念館にある田淵氏庭園

赤穂市立田淵記念館(あこうしりつたぶちきねんかん)は兵庫県赤穂市御崎にある美術館。

1994年、江戸時代初期より「川口屋」の称号で塩田、塩問屋、大名貸などを営んできた田淵家より赤穂市に寄贈された茶道具、日本画、書を中心とする美術工芸品、古文書等の保存と公開を目的に1997年に開設された。

隣地にある田淵氏庭園は、国の名勝に指定されている。

開館時間― 午前930分~午後5時(入館は午後430分まで)

休館日― 火曜日(祝祭日と重なった場合はその翌日)、年末年始(12/281/4

入館料― 200

備考― 田淵氏庭園の公開は毎年11月の期間限定

都市公園としてはニューヨーク市のセントラルパークに次いで世界第2位の広さ 偕楽園

 偕楽園(かいらくえん)は、日本・茨城県水戸市にある日本庭園である。

偕楽園 梅林

好文亭岡山市の後楽園や金沢市の兼六園と並んで、「日本三名園」の一つに数えられる。

広さは約13ヘクタール。1003000本のウメ(梅)が植えられている。園内にはウメの異名「好文木」に由来する「好文亭」がある。

毎年2月下旬から3月下旬には、「水戸の梅まつり」が開催される。開催期間中には多数の観光客で賑わい、キャンドルライトを使って梅をライトアップする「夜梅祭」や茶会など様々な催し物が行われる。

5月には「つつじまつり」、9月には「水戸の萩まつり」が行わる。

19997月に隣接する千波公園などとあわせて名称を「偕楽園公園」とした。面積は合計300ヘクタールであり、都市公園としてはニューヨーク市のセントラルパークに次いで世界第2位の広さである。現在は茨城県の県営公園となっている。

陰陽の世界

偕楽園の正式な入り口である旧来の表門は、敷地の北西側に位置しており、この表門は黒塗りであることから「黒門」とも呼ばれている。

表門から園内に入り、「一の木戸」と呼ばれる門を潜ると、偕楽園の西半分を構成するモウソウチク(孟宗竹)やスギ(杉)の鬱蒼した林の中を進む道が続いている。この道に沿って東へと進み、幾つかの門を経由して好文亭へと至ると風景が一転し、千波湖を一望する高台に位置する、明るく華やかな一面の梅林へと到着する。

好文亭付近には、偕楽園創設の趣旨を記した石碑「偕楽園記の碑」があり、自然界の陰と陽の調和についての説明がある。偕楽園は西半分に位置する杉や竹の林が陰の世界を、北東の梅林が陽の世界を表すことで、園全体で陰陽の世界を体現しているともいわれ、表門から入ってこそ園の設計に沿った、偕楽園本来の魅力を堪能することができるのだと解釈する説もある。

一方、現代においては、表門は偕楽園駅や主要な駐車場から遠く離れており、この門から入園する観光客は少ない。現在は梅林へと直接通じる「東門」が主要な出入り口として利用されている。

 

日本三名園の一つに数えられている  後楽園

 後楽園(こうらくえん)は岡山県岡山市北区後楽園1-5にある日本庭園(大名庭園)で日本三名園のひとつである。

江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されている。

1869年(明治2年)の版籍奉還によって御後園は岡山城とともに一時的に明治新政府の手に渡った。翌1870年(明治3年)11月に御後園は再び岡山藩の所有となり、1871年(明治4年)27日に藩知事に就任していた池田章政が日を限って一般に開放した。この時、「御後園」の名称を中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある「先憂後楽」(「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」)からとって「後楽園」と改めた。

しかし、それまで池田家の居住していた岡山城が兵部省管轄下になり、居住場所を失ったため、同年714日には嶺泉院(9代藩主・池田斉敏夫人)、10代藩主・池田慶政夫妻らが後楽園に移住することとなった。

その後、1882年(明治15年)に多額の負債を抱え財政的に苦しかった池田家は当主の章政が岡山県に後楽園を土地は無償で、建造物と樹石は有償で譲渡することを打診した。1883年(明治16年)1222日から27日にかけて開催された県会では反対派の議員から後楽園に県有とするだけの価値があるかどうか疑問の声が上がり、後楽園買収の議案はいったん否決されたものの、後楽園の文化的価値や観光地としての価値を再検討した結果、12500円で買い取ることを決定した。

後楽園はこの後、岡山県庁の付属地として扱われ、1884年(明治17年)に一般に広く公開されるようになり、「日本三名園」の一つとして挙げられ多くの人々で賑わっていた。

こうして明治以降も江戸期の姿をそのままにとどめていた後楽園であったが、太平洋戦争中の1940年代前半には食糧事情の悪化に伴い、園内の芝生部分がイモなどの畑に転換され、さらには1945年(昭和20年)629日の岡山空襲により、延養亭など江戸期から残されていた園内の建造物の多くが焼失した。

終戦後の1947年(昭和22年)頃には進駐軍の宿舎として使用され、園内には花葉の池の北に25メートルプールが造られていた。進駐軍の撤退後は再び岡山県の所有となり、およそ2億円の費用を投じて園内を本来の景観に復元。1954年(昭和29年)61日からは有料として一般に公開されるようになった。1967年(昭和42年)に園内の全ての建造物の復元が完了し、後楽園は往時の姿を取り戻した。

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