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日本全国に約500社ある厳島神社の総本社 厳島神社

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社である。日本全国に約500社ある厳島神社の総本社とされる。式内社(名神大社)・安芸国一宮で、旧社格は官幣中社、現在は神社本庁の別表神社に指定されている。

祭神

宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)を祀る。市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習合しており、当社は江島神社(神奈川県江の島)・都久夫須麻神社(滋賀県竹生島)と共に「日本三弁天の一」ともされている。

歴史

厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされてきたとされている。推古天皇元年(593年)、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。文献での初出は弘仁2年(811年)で、『延喜式神名帳』では「安芸国佐伯郡伊都伎嶋神社」と記載され、名神大社に列している。

平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、仁安3年(1168年)ごろに平清盛が現在の社殿を造営した。平家一門の隆盛とともに当社も盛えた。厳島神社は平家の守り神であった。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。

戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、元就が当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。元就は大掛かりな社殿修復を行っている。また、豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参拝し、大経堂を建立している。

江戸時代には厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。

明治4年(1871年)に国幣中社に列格し、同44年(1911年)に官幣中社に昇格した。

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2008年3月に国の登録記念物に登録 石谷家住宅の庭園

石谷家住宅(いしたにけじゅうたく)は、鳥取県八頭郡智頭町にある。国の重要文化財。

江戸時代に鳥取藩最大の宿場町として栄えた智頭宿における最も大きな建物の一つで、智頭往来に面して建つ。敷地面積は約10,000平方メートル、広大な池泉回遊式日本庭園を中心に配された部屋は40、土蔵は7を数える。

江戸時代の庄屋建築を、戦前に、衆議院議員・貴族院議員を務めた当主の石谷伝四郎が10年にわたって改築し続けた。現在残る形になったのは伝四郎の死後4年を経た1927年である。さまざまな様式が調和した豪壮な邸宅は近代和風建築の傑作とされる。

主屋など8棟ならびに敷地が国の重要文化財に指定され、玄関棟など5棟、関係文書および棟札が重要文化財の附(つけたり)指定となっている(以上は200912月指定)。また庭園は20083月に国の登録記念物に登録されている。主屋は1928年の竣工。蔵などの付属建物もは戦前に建てられた物である。

 

2003年から2010年まで、8年連続で庭園日本一 足立美術館

足立美術館(あだちびじゅつかん)は、島根県安来市にある、近代日本画を中心とした私立美術館である。130点におよぶ横山大観の作品と日本庭園で著名。

地元出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう、1899- 1990年)が1970年(昭和45年)、71歳のときに開館したものである。質量ともに日本一として知られる大観の作品は総数130点にのぼり、足立コレクションの柱となっている。大観のほかにも、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら近代日本画壇の巨匠たちの作品のほか、北大路魯山人、河井寛次郎の陶芸、林義雄、鈴木寿雄らの童画、平櫛田中の木彫なども収蔵している。

足立全康は裸一貫から事業を起こし、一代で大コレクションをつくりあげたが、その絵画収集にかける情熱は並外れたものであったらしく、数々の逸話が残されている。なかでも大観の名作『紅葉』と『雨霽る』(あめはる)を含む「北沢コレクション」を1979年(昭和54年)に入手した際の武勇談は有名である。

足立美術館のもう一つの特色は、その広大な日本庭園である。庭園は「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など6つに分かれ、面積5万坪に及ぶ。全康自らが、全国を歩いて庭石や松の木などを捜してきたという。専属の庭師や美術館スタッフが、毎日手入れや清掃を行っていて「庭園もまた一幅の絵画である」という全康の言葉通り、絵画のように美しい庭園は国内はもとより海外でも評価が高い。日本庭園における造園技法のひとつである借景の手法が採られ、彼方の山や木々までも取り込んで織り成す造形美は秀逸である。

米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』が行っている日本庭園ランキング(Shiosai Ranking)では、初回の2003年から2010年まで、8年連続で庭園日本一に選出されている。2010年のランキングは日本国内803箇所の名所・旧跡を対象にしたもので、「庭そのものの質の高さ」「建物との調和」「利用者への対応」などが総合的に判断されたもので、とくに細部まで行き届いた維持管理が評価されている。また、『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で三つ星(必見)を獲得している。

日本三名園の一つに数えられている  後楽園

 後楽園(こうらくえん)は岡山県岡山市北区後楽園1-5にある日本庭園(大名庭園)で日本三名園のひとつである。

江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されている。

1869年(明治2年)の版籍奉還によって御後園は岡山城とともに一時的に明治新政府の手に渡った。翌1870年(明治3年)11月に御後園は再び岡山藩の所有となり、1871年(明治4年)27日に藩知事に就任していた池田章政が日を限って一般に開放した。この時、「御後園」の名称を中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある「先憂後楽」(「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」)からとって「後楽園」と改めた。

しかし、それまで池田家の居住していた岡山城が兵部省管轄下になり、居住場所を失ったため、同年714日には嶺泉院(9代藩主・池田斉敏夫人)、10代藩主・池田慶政夫妻らが後楽園に移住することとなった。

その後、1882年(明治15年)に多額の負債を抱え財政的に苦しかった池田家は当主の章政が岡山県に後楽園を土地は無償で、建造物と樹石は有償で譲渡することを打診した。1883年(明治16年)1222日から27日にかけて開催された県会では反対派の議員から後楽園に県有とするだけの価値があるかどうか疑問の声が上がり、後楽園買収の議案はいったん否決されたものの、後楽園の文化的価値や観光地としての価値を再検討した結果、12500円で買い取ることを決定した。

後楽園はこの後、岡山県庁の付属地として扱われ、1884年(明治17年)に一般に広く公開されるようになり、「日本三名園」の一つとして挙げられ多くの人々で賑わっていた。

こうして明治以降も江戸期の姿をそのままにとどめていた後楽園であったが、太平洋戦争中の1940年代前半には食糧事情の悪化に伴い、園内の芝生部分がイモなどの畑に転換され、さらには1945年(昭和20年)629日の岡山空襲により、延養亭など江戸期から残されていた園内の建造物の多くが焼失した。

終戦後の1947年(昭和22年)頃には進駐軍の宿舎として使用され、園内には花葉の池の北に25メートルプールが造られていた。進駐軍の撤退後は再び岡山県の所有となり、およそ2億円の費用を投じて園内を本来の景観に復元。1954年(昭和29年)61日からは有料として一般に公開されるようになった。1967年(昭和42年)に園内の全ての建造物の復元が完了し、後楽園は往時の姿を取り戻した。

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